ログイングロウセオリーに、怪文書が届くようになった。
最初は一通だった。次の日は二通。その次の日には、朝の郵便の束に紛れて三通あった。
それはほとんど、澪に対するものだった。
「朝倉澪は男を弄んでいる」
「朝倉澪は仕事ができない」
「朝倉澪は美人じゃないくせに、自分がきれいだと思っている」
「朝倉澪は二股をかけている」
「朝倉澪は昔の恋人とよりを戻したいと思っている」
まるで小学生並みの内容だった。
それなのに、同じような紙を何十枚も見せられていると、少しずつ気持ちが削られていく。
またもや澪は人事から呼び出された。
「朝倉さん。また、これ……」
会社に怪文書が届くたびに、澪はその内容を人事から見せられる。内容がくだらないだけに、人事も困り果てているようだ。
「申し訳ありません。ご迷惑をおかけして……」
人事担当者は、顔の前
グロウセオリーに、怪文書が届くようになった。 最初は一通だった。次の日は二通。その次の日には、朝の郵便の束に紛れて三通あった。 それはほとんど、澪に対するものだった。「朝倉澪は男を弄んでいる」「朝倉澪は仕事ができない」「朝倉澪は美人じゃないくせに、自分がきれいだと思っている」「朝倉澪は二股をかけている」「朝倉澪は昔の恋人とよりを戻したいと思っている」 まるで小学生並みの内容だった。 それなのに、同じような紙を何十枚も見せられていると、少しずつ気持ちが削られていく。 またもや澪は人事から呼び出された。「朝倉さん。また、これ……」 会社に怪文書が届くたびに、澪はその内容を人事から見せられる。内容がくだらないだけに、人事も困り果てているようだ。「申し訳ありません。ご迷惑をおかけして……」 人事担当者は、顔の前で両手を振った。「いえいえ。朝倉さんが謝ることではないですよ。きちんと仕事もされていますし、ここだけの話、上司からの信頼も厚いですし」 人事担当者はそこで言葉を切り、「ただ」と続けた。「これだけの怪文書を、飽きることなく毎日のように送りつけてくるのですから、朝倉さんに恨みがある人物かもしれません。ご自身の身を守るよう、十分に気をつけてください」「そうですね……。ありがとうございます」 澪は人事部をあとにしながら、一体誰がやっているのかと考えた。「まさか……」 頭に浮かんだのは、ロビーで警備員に連れていかれた直哉の顔だった。 けれど、あの人は自分の手を汚すような真似はしない。汚れ役はいつも誰かに押しつけてきた人だ。 では、押しつけられる相手は。 そこまで考えて、澪は思考を止めた。 しかし、これほどくだらないことをするだろうか。
澪が受付に向かうと、直哉は腕を組み、右手の人差し指を腕の上でトントンと叩いていた。眉間に深いしわが寄っている。 しかし、澪の姿を見るとすぐに、組んでいた腕を解き、笑顔を見せた。「澪!」 直哉が澪のもとへ走り寄ってくる姿を、澪は冷めた目で見ていた。 直哉が近づいてくるにつれて、細かいところが目についた。ワイシャツの襟が黄ばんでいる。顎には剃り残しの髭。革靴のつま先には、白い粉のような汚れがこびりついていた。 五年付き合って、こんな身なりの直哉を見たことは一度もなかった。 どうして今さらこんなことをするのだろうか。 付き合っていたころは、澪が遅れていくと、常に機嫌が悪かった。こんなふうに「会いたかった」と言わんばかりの表情を向けられたことはない。 それなのに、今はどうだ。 まるで、長い間会えなかった恋人に会えて、うれしいと言っているかのようだった。「悪い、仕事中に」「用件は、なに?」 澪は立ち止まり、直哉から一定の距離をとった。「澪、ごめん」 直哉はその場で頭を下げた。「俺、どうかしてた。花音と結婚したのは間違いだった」 ロビーのソファで順番を待っていた来客が、なにごとかとこちらを見た。エレベーターホールから出てきた社員が、足を止める。 直哉は、周囲の視線にまるで気づいていない。花音との結婚が間違いかどうかなんて、澪には関係ない。 澪はただ黙って、目を細めて直哉を睨みつけた。「花音とは別れるよ。離婚届を花音に渡した。だから、俺とやり直そう。なにもかも、間違いだったんだ」 直哉は眉を下げ、うっとりとした顔を澪に向けてきた。 まるで澪のことが愛おしくて仕方がないかのような表情を見て、澪は吐き気がした。 直哉は、自分がしたことを、もう、忘れたのだろうか。 澪という婚約者がいながら、浮気をした。そして、子どもまでもうけたのだ。 「責任を取るから澪と別れてほしい」と言ってきたのは、この人ではなか
Onlyé for youにアレルギー物質が入っているというデマ。その発信元が花音だとわかった次の日、澪は会社の法務担当に相談した。「本件はダーマコードだけでなく、同社の商品を取り扱う我が社にも影響を及ぼしています。この炎上により、既存商品『Onlyé』の売り上げが急激に減少しています」 澪はデータを法務担当へと提示した。「確かに、朝倉さんのおっしゃるとおりです」 法務担当は眉根を寄せた。「それに、以前私に告発メールを送ってきた人物も、同一人物だとわかっています。そこで、今回の件と合わせて法的措置を取りたく、ご相談に伺いました」 法務担当は背もたれに体重を預けて、腕を組んだ。「……ダーマコード側への攻撃という見方もできますが」「はい。ですが、売り上げの減少による実損は、我が社に生じています。ダーマコード側からも、並行して法的措置を取ると連絡がありました」 仁から「俺の手で終わらせてもいいか」と聞かれたとき、澪は自分の手で終わらせると告げた。けれどその後、今回の件が会社の社会的信用を揺るがす事態になったため、ダーマコード側からも徹底的に戦うと連絡が入った。 つまり花音は、ダーマコードとグロウセオリーの二社を敵に回したことになる。 数字の並んだ資料を、法務担当は指の腹でなぞった。「わかりました。それでは手続きを進めていきましょう」 その言葉を聞き、澪は深く頭を下げた。「ありがとうございます。発信者情報開示請求と、誹謗中傷に関するログの証拠保全をよろしくお願いします」 澪がオフィスに戻ると、奈央が近寄ってきた。「澪ちゃん、もしかして面白いことやるの?」 奈央の目が、いたずらを思いついた子どものように光った。「面白い、かどうかわかりませんけど……。やる予定です」 澪が目に力を込めると、奈央はニヤリと笑った。「わかった。手伝うね。優先順位高めで
なんでこいつと結婚しちまったのかさっぱりわからない。 離婚届を叩きつけたあとも、花音はソファから動かなかった。スマホを握ったまま、上目遣いにこちらを見上げてくる。 直哉はその顔を見下ろした。 家事はすべて雑だ。食事もろくに作らずにスーパーの惣菜やデリバリーばかりだ。 お腹の子によくないんじゃないか、と助言しても「つわりのときは食べられるものだけ食べてたらいいんだって、お医者さんが言ってた」と言われた。 なぜあんな判断をしてしまったのか。澪の仕事が忙しいからと、花音に相談に乗ってもらったことが間違いの元だった。 あのとき、するっと膝に手を乗せられた。爪の先で、ゆっくりと円を描かれた。それだけだ。それだけで、内腿の奥がじわりと重くなった。 澪とあまり会えていなかったからだ。ずっと我慢していたのだ。だからつい、流されるように、花音を抱いた。 悪いのは、忙しくしていた澪のほうだった。 けれど、たった一回しかやっていないのに、それで妊娠したと母子手帳を突きつけられたときには血の気が引いた。ほかの男との子どもじゃないのかと疑いたくなったが、「あの日、危険日だったの」って言われたら口をつぐむしかなかった。 その後、澪と別れて花音と結婚したが、後悔の連続だった。 別れてから、澪はやけにきれいになった。もともときれいだったのだが、それは自分だけが知っていればいいことだった。それなのに、結婚式に現れたときには、参列者が目を見張るほどの美しさだったのだ。 そしてそのそばには、あの高宮とかいう社長が出しゃばっていた。あいつはまるで「澪は俺のものだ」と言わんばかりに、澪を抱き寄せてそばに置いていた。 ――本当は俺のものだったのに……! 怒りがわき起こり、どうしようもなくなった。自分の横に立っているのは、花音ではなく澪のはずだった。 妊娠したと言うから、仕方なく責任をとって結婚することにしただけだ。 結婚してから、楽しいと思えたことは一日もない。けれど、唯一の楽しみは、自分の子どもをこの手に抱くことだった。
澪の提案でOnlyé for youの成分解析を第三者機関に依頼してから一週間ほど経ったころ、仁から解析結果が届いたと連絡が入った。『ダーマコードに来てくれるか?』 仁から電話をもらってすぐに、ダーマコードへ向かった。 通された会議室にはすでにダーマコードの関係者が集まっていた。「朝倉さん。わざわざありがとうございます」「真壁さん。私ひとりで伺いましたが、よろしかったでしょうか」「朝倉さんだけで十分ですよ。ね、社長?」 なぜか真壁がニヤニヤしながら仁を見た。「そうですね……」 仁はつーんと澄ました顔をしているが、目元は真壁を睨みつけていた。 真壁は、やれやれと言わんばかりに両肩をすくめて、澪に書類を手渡した。「これが、今回出された解析結果です」 澪は書類を受け取り、素早く目を通した。 項目が並んでいる。検査した成分の一覧、検出限界値、試験方法。どの欄にも、同じ言葉が記されていた。 不検出。不検出。不検出。 アレルギーに関与する物質などは、なにも含まれていない。 それを確認すると、安堵の吐息を漏らした。「よかった……。そもそもアレルギー物質なんてあるはずないのに」「そうですよね。私たちもまったく同感です。でも、こうして解析結果が出たのですから、正々堂々と対応でき――」「それでは、この結果を公開しましょう」「え?」 真壁は口をぽかんと開けて澪を見ている。仁に顔を向けると眉根を寄せていた。「原材料にはなにが使われているのか、解析結果はどうだったのかを示すんです。もちろん、配合比率などの社外秘情報まで公開する必要はありません。ただ、『アレルギー物質は含まれていませんでした』と伝えるよりも、『原材料はこれで、解析結果はこうでした』と示したほうが、信頼性は高まります。どうでしょうか、高宮社長」 澪は仁に真剣な眼差しを向けた。
「澪、ごめん。今から会社に行かないといけなくなった」 仁は鞄を手に取り、出かける準備を始めた。「もしかして、Onlyé for youになにかあったの?」「ああ。SNSであらぬ噂が拡散されているらしい」 本格的な販売を前に、なぜそんなことになっているのだろうか。澪は、どのような噂が流れているのか気になった。「あたしも、一緒に行っていい?」「せっかくの誕生日なんだから、うちのごたごたに巻き込まれなくていい」 仁はまっすぐ澪の目を見つめた。澪も仁の目を見つめ返す。「Onlyé for youの企画はあたしが出したんだよ。あたしも参加する資格がある」 澪が目に力を込めて仁をじっと見つめると、仁は根負けしたように表情をゆるめた。「わかった。澪も俺たちに力を貸してくれ」「もちろん。さ、早く行こ」 澪は仁の背中を押して、玄関へと向かった。 ダーマコードに到着すると、すでに真壁の姿があった。「仁……と、朝倉さん?」 真壁は目を見開いて澪を見ていた。信じられないという顔をしている。「お疲れさまです」 澪は何食わぬ顔で会議室へと入った。「どうして、朝倉さんが……?」 真壁が恐る恐る尋ねた。澪がどう答えようかと視線をさまよわせていると、仁が声を上げた。「時間も遅いですから、始めましょうか」 仁が気を利かせてくれたのだろうか。澪の肩から、ふっと力が抜けた。 会議室には、呼び出されたらしい社員が次々と入ってきた。時計の針は十一時を回っており、どこかのデスクでは電話が鳴りっぱなしになっていた。「あ……」 そうだった。以前、真壁がグロウセオリーへ打ち合わせに来たときに落としたボールペンをバッグに入れていたんだった。「真壁さん、これ、違いますか?」







